11/20

午後休を取っていれば月曜なんてなんてことはない。あと1時間半…あと30分…とそわつきながらも最低限今日やっとくべきことを計算してやっつけていると、先輩にあたる人が後輩の人にめずらしく話しかけた(指示)。パソコンにちょこっと隠れて見守る。心臓がきゅっとなってたと思う。先輩の人の語気は案の定、というかいつにも増してかたくて冷たすぎて、いたたまれなくなって、倉庫に行くふりして一瞬席を外した。先輩の人は後輩の人にだけいつもこんな感じ。いい大人が(2人とも50代)、ほんと勘弁してほしい。もう怒っていいんじゃないかとも思うんだけど、後輩の人は律儀にハキハキと返事をしていた。その後先輩の人にいつも通り楽しく(わたしとはずっと関係がいいので…)話しかけられても正直笑顔も引きつる。もうしらねと仕事しながら、はたと、これわたしが許してるのもいけないよな、学校のいじめでいう傍観者だよな。とりあえず上司(上司もこの件で頭抱えてる)に相談しよう…

午後は通院で、帰りに無印でホワイトチョコがけいちごを久しぶりに買った。小さい頃から大好物だったので遺伝子レベルでうまかった。一袋200円であってほしい。

11/19

昨日は久しぶりに気分が落ちた。泊まりに来る予定だった妹は、寒いからまた今度…とのことで土日を一人で過ごすことになった。昨日の今日なので気づくと卵巣のことを考えていて、妊孕性すなわち人生設計にまで一足飛びに考えが及んでしまう。休んだ翌日、上司にざっくり受診した理由を説明すると「それはこわかったね」と言われた。そう、こわかったんだけど、同業者はその時一番ほしい言葉をくれるからいやだ。気持ちがぐにゃぐにゃして、何も返せなくて無視したみたいになった。布団の中で涙が出る。いま考えても仕方ないことで悩むのが一番不毛だ。そしてこういうとき最後は必ず同じところに着地するのだった。着地点のことは恥ずかしくて誰にも言えない。生理は薬で止まってるのに生理前みたい。

 

今日は昼前には起きて外に出た。ダル着どすっぴんということは忘れて美人の表情で歩く。このまちはプチ飲屋街なので、日曜午前なんてどこも閉まっていて人通りも少なく、風は冷たすぎずきりっとして、正月みたいな空気だ、と思ってうれしくなる。昨日とは打って変わった日にできそうな気分になってありがたい。ケーキ屋さんに寄って、昼には売り切れてしまうシュークリームを買えた。健康のために野菜不足を解消したくて、スーパーでまとめ買いした。平日にこの量をさばく自信はなく、今日やるしかなかった。今日も自信はなかった。でもやる気はちゃんと出てきてくれて、めちゃくちゃ美味しいポトフができて満足。今年はまじで厄年すぎる…とくよくよしてたけど、気分が落ちるのが久しぶりということ自体がすごくて、やっぱりどしどし進んできた一年ですよ、と労いたい。

11/16

昨夜は珍しく急ぎの仕事があって遅くまで残業し、帰路につくと下腹部の違和感に気づいた。歩くたびに響いて鈍く痛い。帰宅してあたためたり横になったりすると少し落ち着いたけど、もしかして卵巣がねじれかけてるのかも?という可能性が振り切れず、YouTubeで体験談を漁った。ねじれたら耐え難いほどの痛みらしいけど、痛みに鈍いという自覚がありいまいち基準がわからなくて困惑した。万一ねじれてると時間との勝負で、遅れれば全摘しないといけなくなるはずなのでこわかった。一応救急車を呼んでもいいように、腹をかばいながら少し部屋を整えて、入院になってもいいように軽く荷物も準備した。少なくともいつでも救急車を呼べる部屋にしておかないとな…とか思って、衰弱しているのに救急車を拒否した下田さんの気持ちが少しわかったような気がした。

朝起きても違和感は消えていなかったので、腹を括って仕事を休んで受診した。病院まで歩いてるといつもより呼吸が早くなるのでやっぱりおかしい。担当医は外来日じゃなかったけど診てくれるとのことで、それでもかなり待った。病院は来る人みんな具合が悪いから腹が痛いくらいじゃ急いでくれないんだな、時間との勝負なのでは、、とかぼんやり。たぶんわたしがもっとヤバそうだったら違ったし、そもそもそれなら救急車を呼んでる。結局大きな異常はなく、腫瘍は少しだけ小さくなっていた。腹水がちょっと溜まってるから腫瘍が少し破れての?痛みかなぁ、みたいな感じでよくわからなかった。一人でとぼとぼ帰る。こういう時誰かに言いたいけど誰にも言いたくない気持ちになるのなんなんだろう。母に言えば心配してくれることは分かっていたけど、最近距離を置いてるのでいやだった。

わたしの子宮は内膜症のせいで癒着して後屈している?らしく、調べると不妊の原因でもあって、さっさと産んでしまった方がいいのかもしれない。一旦もうあまり考えたくない。早く猫をお迎えしたい。書くと少しすっきりする。

11/14

昨日はやっとこさ出張先から帰ってきた。帰りの飛行機を降りてから完全に人間関係スイッチを切ってしまい、帰りの車では一番後ろを陣取ってほとんど会話に参加しなかった。それがわたしのデフォルトなのに「具合わるくない?大丈夫?」と訊かれるのが、参加しろという圧にも思えてしまう。大懇親会に不参加をつらぬいたわたしを他部署の善良な人が「何かつらいことがあるんだろう…」と心配してたよ笑と先輩に言われて苦笑いでゲンナリした。

でも同行メンバーの中にはもちろん波長の似た人も何人かいて、不参加表明したからこそ向こうから勝手に寄ってきてくれた。団体行動やだねーとか話して、最終日も「懇親会どうでした?笑」「いやもうさぁ……!」とかこそこそ話して楽しかった。

 

そんなこんなで今日は完全にひきこもる日と決めてた。人疲れを癒す!今日はなんもしねえ!と意気込んでた割にはスーパーに行き、洗濯して皿を洗い、浴槽を洗ってお湯をためた。ホテルで毎日浸かって、よかったので身体のバキバキが治るまで毎日浸かりたい。ジンギスカンは有名店に行ったけどくさみがなさすぎて羊を食べた気がしないので年内に地元でリベンジしたい。明日から仕事。受け持ちの人たちに大きな、悪い変化がありませんように。

11/10

出張に来てる。今回は団体行動みがつよく、3泊4日すべてみんなで飲み会が前提という姿勢にうんざりして、行く前は友だちにもぐだぐだ文句を言っては相当うだうだしていた。でもいざ飲み始めるとなぜここにいるか?など深い話になり、結局(みんな最高やん、、、、)の気持ちでいっぱいになる夜。ただ苦手だった上長が過去に仕事で悲惨な経験をしてなおしっかりといま立っているということも知った。

帰りの電車、明日からの催しの主催でありうちの一番えらい人が中心にいる別の団体について、その一番えらい人に「あんまり好きじゃないんですよね」とぶっちゃけた。えらい人は「なんでそう思った?」とまずきちんと耳を傾けてくれた。ここ2年いつも気持ち悪く、腹立たしく思っていたことを簡潔に伝えると、「おれももうだめだと思ってるよ。だから…」と返ってきて、心底安堵した。わたしが3年前に背中を追ったこの人をこれからも尊敬し続けられる。実際はただ同じ組織にいただけで、全然追えていなかった気がする。わたしの「なぜここにいるか」を語りながら、自分の中ですでに終わった物語になり始めていることを感じて、この話はすごく大事で、原点はやっぱりここにあるのだと我に帰る。忙しさから視野が狭くなり、責任が少ないうちに逃げちゃおうとか考えてたけど。そうやってなんとなく居合わせているのではなく、きちんとここで根を張って、腰を据えて、もっとやれることがあるのかもしれない。10月11月はいい意味で激動で、これからの方向性を決めるためにがんがん進んでるように感じる。いい年末!

10/25

たまたま上司と外勤のついでにわたしの受け持ちの方を訪問することになった。使える制度はあるのにそれを拒否していてにっちもさっちも行かない、つながりにくい、福祉職がつい「困難ケース」と言ってしまいたくなる(もちろんそれは彼女のせいではない)ような人。この数ヶ月、彼女にまず嫌われないようにブチギレポイントを掴み、メリットになることを提供してつながりを細く保つのは結構神経を使った。どうにもならん状況を苦笑いでわたしに話す彼女を見て、事務所に戻る車内で上司は「彼女の支援はほぼ終わってるね」と言った。本当はすぐに何が言いたいのか察したけど、ちゃんと言ってほしくて黙っていた。「あそこまで関係ができてれば、あとは彼女がちゃんと決めるのを待つだけだよ」と続いた。苦しい状況にある人がたくさんいることについて、プライベートではつねに国に怒ってるけど、仕事ではいま目の前で起こっていることなわけで、自分の仕事に対してこれで本当にいいのか?と不安になるし、どこまでやればいいのかわからなくなることもある。べた褒めされるより、この「お前はもうしんでいる」みたいなコメントでただ状況を認めてもらえて、心底ほっとした。めきめきと調子に乗っていた異動欲が、やっぱ上司最高……!の気持ちで一瞬でしぼんでいった。

10/19

仕事でばりばり精神障害のあるひとに「ゆるふわ自己肯定のススメ」的な話をしかけて、ちゃんと立ち止まって方向転換できてよかった。自己肯定感うんぬんって結局自助努力の話だから嫌いになってきた。大学低学年の頃は自分にとって自己肯定感という課題は大テーマだったけど、どんどんもがいて突き進んだ結果、解決していった認識だった。でもつい先日カウンセラーにも自己肯定感のことを言われて、まだそこなん!?ってびっくりしてしまったんだけど、あんまり間に受けないことにした。東畑開人さんがTwitterで「自己肯定感が問題になるのは、自分への攻撃が強まったときであるのだから、本当に重要なのは自己肯定を強化するのではなく、自己否定を和らげることであるように思う。自己否定の声はロジックがシンプルかつ強固なので、反論しにくい。だから、役立つのは他人の声だ。他者が案外無関心で、厳しくないことはチェーサーの水のように自己否定の濃度を下げてくれる。」(まんまコピペ)と言っていて、腑に落ちる言い方だった。最近自分に向き合おうとした結果、精神疾患や心理職への解像度が上がって仕事にもいい影響を感じる。意識たけ〜